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feed 京都観光マラニック?(最終回) (2016-10-15 8:25:49)
天使さんから約600m走った後、因幡薬師(平等寺)に到着しました。 

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その因幡薬師の由来は以下の通りです。
(以下の内容は因幡薬師のHPからの要約しました)
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平安時代、橘 行平(たちばなの ゆきひら)という人がいました。 天皇の命で因幡国(現鳥取県)に神事の為に行きました。そして帰る途中、急病になりました。神仏に祈り続けていると、僧が現れました。

「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木がある。その浮き木は衆生済度(人々を救って悟りを得させるため)に遠くの仏の国からやってきた。あなたは速やかにこの浮き木を求めて供養しなさい。そうすれば必ず病気は治る。さらに一切のあらゆる願いが成就するだろう」

行平は正夢に違いないと思い、早速人々を集めて大網をもって海底を探らせたところ、お告げの通り一つの浮き木がありました。それは薬師如来の尊像でした。

行平は喜んでこれを信心しこれを供養する草堂をこの浦に建て薬師如来像を祀りました。

その後、行平の病気は平癒し、無事に京に帰る事が出来ました。ところが帰京した行平にまたある夜、また僧の夢を見ました。

「我は西の天より来て、東の国の人々を救おうとやってきた。あなたには宿縁(前世からの因縁)があるから重ねて事を示す」

行平が夢から覚めると丁度、屋敷の西門に来客があると家人が呼びに来ました。

行平が「どなたですか」と問うと「因州の僧だ」と返答がありました。行平は驚いて西の門を開けさせたところ、あの薬師如来の尊像が立っておられたのです

さっそく行平は五尺余りの尊像を碁盤の上にのせて安置しました。行平は屋敷を改造してお堂を作り、このお堂を因幡堂と名付けたのです。

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この平安時代、京都では「東寺」と「西寺」の二つの寺のみを認め、私寺の建立を禁じたということです。 いわゆる桓武天皇の「私寺建立禁止令」です。 しかしこの場合は自分の屋敷を改造したということで大丈夫だったみたいです。(バレなかった??)

またこの因幡薬師(薬師如来)は日本三如来の一つです。 他の二つに長野の善光寺の阿弥陀如来、京都嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来です。

薬師如来ということで病気を治すというご利益があり、今は「がん封じ」としてお参りする方が多いそうです。

早速皆でお参りしました。

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ここの因幡薬師を出発し南から東へ向かい鴨川を渡ります。 そして豊臣秀吉が祭られている豊国神社へ向かいます。 豊国神社に続く通りは「正面通り」と呼ばれています。 何故「正面通り」なのか??? これは後ほどわかります。

豊国神社の前の「耳塚(鼻塚)」に到着です。 

この塚の由来はこうです。 天下を統一した豊臣秀吉がさらに大陸まで統一しようとした際、朝鮮半島に侵略したいわゆる文禄・慶長の役で朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ(首の代わり)、塩漬にして日本へ持ち帰りこの地に埋められたそうです。 何とも残酷な話で悲しくなりました。

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豊国神社に向かいます。 この通りは「正面通り」です。

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豊国神社。 ここはスルーしました。

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神社に隣接している方広寺に到着しました。 問題の鐘です。 いわゆる鐘銘事件「しょうめいじけん」。 

その事件とは。。豊臣秀頼が家康のすすめで方広寺大仏を再建した際,同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」の字句が,家康の名を分割し身を切断することを意味し,徳川氏を呪詛(じゅそ)し,「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると非難し,大仏開眼を延期させました。これをきっかけに家康と秀頼が対峙することになり、大坂の陣が始り豊臣家が滅亡することになりました。

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「君臣豊楽」「国家安康」の字がくっきり見えます。 白く着色していなければ見えません。「君臣豊楽」が「国家安康」上に書かれていることも良くなかったかもしれません。 

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さて方広寺には大仏がある?(あった?)ということで少しだけ先に進みました。 さて前述の「正面通り」とは方広寺の大仏の正面につながる通りであることに由来します。

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かって大仏があった所(大仏殿)は草ぼうぼうでした。 観光客もいません。

かってここの大仏殿が文禄4年(1595)にほぼ完成。 高さ約19mの木製金漆塗坐像大仏が安置されました。 (奈良東大寺の大仏は約15mなのでそれよりも大きいです)

翌年の慶長元年(1596)に地震(慶長伏見地震)があり、開眼前の大仏は倒壊してしまいました。 その後、再建しようとしましたが、火災や落雷で焼失。 

その後、豊臣秀吉の不人気?ゆえに再建されなく、今に至っています。
近くの電柱には大仏という標識がありました。 ここに大仏があった証のひとつです。

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ここでマラニックでの観光は終わりました。 9キロ近く、2時間半のマラニックでした。 中身の濃く、充実したマラニックでした。 まりもさんに感謝です。 普段観光客が行かない場所を案内していただき、京都の別の側面を観ることができ勉強になりました。

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京都タワーに戻りタワーのお風呂に入り、近くのホテルでfrun20周年のパーティーに参加し楽しく過ごすことができました。 

マラニックからパーティーまで充実した半日でした。 参加のfrunの皆さん、お疲れ様でした。 ありがとうございました。

またこのブログを読んでいただいた皆さんありがとうございました。



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