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【「タッポーチョの稜線に散る」を改めて読む(1)】 (2016-6-15 19:48:09)
もうかなり前の話だが、小野進也さんという方が著したこの書を1冊贈ってもらった。
「タッポーチョ」とはサイパン島中央にある約500mの峰のことである。
ここで昭和19年に著者の父が戦死した。著者は昭和50年代に2回、同島を訪れ、戦場であったこの場に立ち、また多くの資料に接し、
父の亡くなるまでの足跡を調べ、それを書に著した。
著者はあとがきにおいて「本書では戦局の全体像の個々の部隊の動きを描くこととし・・」と、出来るだけ客観的に著すことに努めている。
自身が体験した戦記、あるいは親族が亡くなった激戦の様子となると、どうしても様々な感情を稿の中に吐露したいものだ。
そのような戦記は数多く、また情報不足も加わり、やたら誇大に記すものも少なくない。
例えば、私の祖父は7人兄弟で兄の1人はインドネシア戦線で亡くなったのだが、帰還した戦友は、
「**さんは爆弾を抱えて戦車に突進し、壮絶な死を遂げた」
と話した方もいれば、
「現地の娘と仲良くなり、もう日本には帰らないと言ってくれと伝言を受けた。」
と話した方もいたようだ。1人1人、皆、話が違った。それでも祖父の母親は食事でもてなしたと、生前、祖父が苦笑いしながら話してくれたことがあった。
この著者にも様々な情報が届いたと思う。それを整理し、不確定情報は排除し、また感情もぐっと抑え、出来るだけ淡々と記している。
このあたりは児島の「太平洋戦争」や吉村の戦記文学に近いものを感じる。
私はサイパン島には平成2年、3年と2回訪れている。共に戦跡をたどることを目的とした訪問だった。
書のまえがきにおいて、観光バスのガイドとして「チャモロ族の老人」と著者が会話をしている場面が出てくる。
私もこの老人に会って、話を聞いた。サイパンでの激戦時、少年だったこの老人は日本語も上手で、本当に奇跡的に助かった同島民族の1人であった。
この書について数回に渡って私が感じたところを記していこうと思う。著者には今から十数年前だろうか、何度かお電話でお話をさせていただいたことがある。
その時にバスガイドをしたチャモロ族の老人が亡くなった話を聞いた(恐らく平成10年頃にこのガイドは亡くなったようだ)。
つい数日前、この書を改めて再読しなければ..という大きな出来事があった。
それでは愚文ながら、不定期に何度か記していく。
今、サイパン島は日本人にとって楽園の地の1つといってもいいと思う。本当に綺麗な海、多くの自然体験が出来る素敵な場所だ。日本人旅行客が多く、
ここは日本では?と思うほどだ。ただ、海岸には「呉工場」と記された錆びた砲塔があったり、破壊された戦車等、今なお、当時のことを感じる「遺跡」は少なくない。
バンザイクリフも然り。
著者はサイパン島に降り立ち、このような「遺跡」、そして海をどのような気持ちで眺めたのだろうか?
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