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【上田仁・東京交響楽団のショスタコヴィチ交響曲第12番を聴いて】 (2013-9-18 20:33:29)
このCDの前に。
私は恥ずかしながら上田仁という指揮者に関して殆ど知らなかった。お名前すら「ジン」ないし「ヒトシ」と思っていたほどだ。
今回、上田さんの事を少し調べてみた。北海道生まれで、東洋音大(現.東京音大)で学び、その後、齋藤秀雄等と音楽活動を行った方だった。
ショスタコヴィチの交響曲群(第6番〜第12番)、ヴァイオリン協奏曲第1番、ピアノ協奏曲第1番、「黄金時代」等の日本初演も手がけ、
作曲家本人にも会っている。
ショスタコヴィチに会った日本人音楽家は他には芥川さんしか知らない。
また上田さんは、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ストラヴィンスキーといったソビエト音楽ばかりでなく、
バーバー、ハリス、コープランド、バーンスタインの作品の日本初演も手がけている。例えば「不安の時代」は
世界初演からわずか5年で日本初演だ(1954年)。
ダルラピッコラ、ヒナステラ、ジョリベ、ウェーベルン、バルトーク、オネゲル、ルーセルの日本初演もある。
当時(敗戦直後〜1950年代)のプロオケのプログラムは、まだベートーヴェン、ブラームスなど、ドイツ系が主流のプログラムが
中心だったに違いない。そこにショスタコヴィチ、コープランド、オネゲルだ。
団員の中には、その作曲家の名前を初めて知った!という方も少なくなかったと思う。抵抗もあったはず。しかし上田さんは、振り続けたのだ。
曲に関する資料の入手もまだ困難だったかもしれない。
しかし、何かに取り憑かれたかのように、「我々が演奏しなくては!!」という使命感のようなものがあったのだろう。
今回の交響曲第12番は1962年のライヴ。この2年後、同楽団はTBSとの契約を切られ、4月には団長が自殺するという悲劇も起きている。
上田さんはこの1964年まで同楽団の指揮をとった。
時期ははっきりしないが、この前後に軽い脳障害を起こすも、リハビリをし、1965年には札幌交響楽団を指揮されている。翌年死去62歳。
CDを聴いてみたが、上田・東響といえば、まずはショスタコヴィチ!!という演奏。
このコンビは第7番から順番に日本初演を行ってきたわけではない。
最初は第8番だ(1948年)。終戦から僅か3年でショスタコヴィチの傑作の一つを取り上げている。
次に第9番、第7番、第10番、第11番と演奏している(第6番の演奏年は不明。コンドラシン・モスクワフィルが日本初演という説もある)。
第12番がムラヴィンスキーによって世界初演されてから半年後に日本初演だ。
上田さんはこの第12番に限らず、他の番号の交響曲も世界初演されるや、すぐ日本初演を行おうと努力していたように思える。
まだできたてほやほやの段階で演奏している。
1962年なのでステレオ録音か!と思うも、残念ながらモノラルだ。しかも日比谷公会堂。シンバルがバシ〜ン!と響かず、
バシン!バシン!と聞こえてくる。残響が殆ど無し。音質もやや平坦で、1950年代のフルトヴェングラー時代の音質に似ている。
そして作品に対しての必死さ!というか、そういう感情も伝わってくる。あたかも一般大学のオーケストラの定期演奏会のような
「ひたむきさ」を随所に感じるのだ。演奏している様子が目に浮かんできて、頑張れ〜!!と応援したくなる。
演奏後、拍手喝采。聴衆も多かったようだ。よくもまぁ、初めて耳にするであろう日本初演の大交響曲に皆さん、足を運んだものだ。
当時、日本人のソ連への感情も複雑だったはずだが、音楽に国境はないということだ。
聴衆もオーケストラを育てた。
戦後、日本のオーケストラが輝いた瞬間を、ここに感じた。
ショスタコヴィチのファン以外の方にもお勧めしたいCDだ。
上田仁さん...、敗戦直後の1947年からの20年弱、日本の音楽発展の為に尽力された偉大な指揮者だったのだ。
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