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私はある派!
坊主頭にしたことがあるというか、今も丸坊主ですけど(笑)。
私が中学校に入学したのは昭和47年(1972年)のことです。当時、私の通う中学校は坊主頭と決められていました。あの頃、田舎の学校はまだまだ坊主頭の学校が多かったんですよ。坊主頭にするのは嫌だったけど、中学入学前に床屋に行って坊主頭にしたときは、大人の階段を一歩上ったように思えたものです。一種の儀式のようなものでした。
当時は70年安保闘争から連合赤軍事件に至る学生運動が盛んだった最終盤とも言える時期。学生運動の余波が大学から高校などにも飛び火していた時代です。中学でも同じように生徒の権利主張が盛んに行われていました。私が中学校に入学したときは、うちの中学校でも頭髪自由化について盛んに議論されていました。私も自由化賛成派に回って集会などではいろいろ意見を言ってました。
中学2年になるときに頭髪自由化を勝ち取りました(完全自由化ではなく3つの髪型が指定されました)が、当時バスケット部に所属していた私は自分の自由意志で坊主頭を継続していました。「坊主頭にされるのは嫌だけど、するのはいい」と屁理屈をこねて。当時からへそ曲がりだったのですね。
高校に入ってからも坊主頭は継続していました。5厘刈りから5分刈りに伸ばしましたけど。運動部に入ったわけじゃないから坊主にする理由はなかったのですけどね。ただ伸ばすのが面倒だったのです。2年生になってから色気づいたのかちょっと伸ばし始めました。でも七三分けに黒縁めがねというスタイルが悪かったのでしょうか。中学の後輩と一緒に行動していたときに顧問の先生と間違えられてしまい、そのショックから角刈りにしました(笑)。
高校卒業後、札幌に出て浪人生活が始まります。そこで悪夢の半年がやってきます。床屋に行くのを面倒がっていたら、髪がどんどん伸びちゃったのですね。そのまま私の人生で唯一の長髪期となったのです。髪の毛で耳が隠れていたのは、後にも先にもこの半年間だけです。
やがてその髪がうっとうしくなり断髪をしました。その後はずっと短めの髪型にしていました。
1999年から走るようになりましたが、最初の頃は普通に七三分けで走っていました。けっして長髪ではなかったし、他人様より髪の量が多いわけでもありませんが、それでも走るにはすごく邪魔に感じるようになりました。それから短いスポーツ刈りにするようになりました。
床屋は1,000円カットの店を利用していました。どうもこの頭にお金をかけるのは無駄に思えて(笑)。ところが留萌に転勤したら1,000円カットの店はありません。家の近くの床屋に行ったら3,500円もかかってしまいました。この頭にそんなにかけるわけにはいきません。床屋代は自分の小遣いから出さなきゃならないし・・・。
ということでバリカンを買ってきて、セルフカットをするようになりました。バリカンでセルフカットとなるとスポーツ刈りなんてできません。丸刈りです。でもいいんです。丸刈りは慣れてるし好きだから。ということでそれからずっと坊主頭を通し、2週間に1度、自分で刈っています。最初のうちは3,000円くらいの安いバリカンを使っていましたが、今年からはもっと高いバリカンを使うようになりました。おかげで快適な坊主頭ライフを送っています。
セルフカットはずっと3mmでやってきましたが、今の機種はもっと短くすることもできます。次は2mmか2.5mmにしてみようかと思っています。短くすることで2週に1度のペースを3週に1度にできればもっと楽ができますし・・・。
いいですよ、坊主頭は。一度やったらやめられません。
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