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【被災地を忘れない】 (2013-9-12 22:10:14)
越谷の竜巻片付けボランティアは14日(土)をもって終了とのこと。初日は僅か10数名から始まったボランティア作業だが(私は2日目に参加)、
昨日段階でのべ1694人が参加したようだ。
この中には毎日参加した方もいるだろうが、実数というか1000人以上は関わったと思う。素晴らしいことだ。
私が作業に参加した時は、何も用意もせずに受付に来た不慣れな若者も多かったが、とにかく、何か手伝いたい!と受付に来たその気持ちは
素晴らしい。今風の若者もいたが、熱心に取り組んでくれた。
正直、私はのべ数でも200人程度かと思っていた。実にのべ1694人!嬉しかった。
いつも思うのだが、行政機関はすぐには動かない。そこがもどかしい。今回の越谷福祉協議会の動きは敏速だった。
初日・2日目は、少し問題点があったが、いち早く改善した。
あの竜巻被害からもう1週間少し経過した。毎度ながら、もうマスコミも取り上げないから、この被害も一段落かと思ってしまう可能性もあるが、
当然ながらそんなことはない。片付けは終わっても、再建は大変だ。
被災状況によっては、家を完全にゼロから作り直さなければならない方もいるだろう。
新築中の家もやられた。
国道4号バイパスを車で走ると、越谷市大袋近くの(旧 国道4号と立体交差するところ)住宅群の一部はブルーシートで覆われている。
屋根が完全に吹っ飛んだところは、何もしていない。柱が数本だけかろうじて立っているアパートらしきものもある。
東武電車からも一瞬、現場を確認出来る。
ボランティア作業中、「空の色が少しでも黒くなると怖い」と言っていた住民がいた。全くその通りであろう。
雷が鳴るだけで「また、来るのか!」と心配したご老人もいた
宮城では、例えば、仮設住宅近くに何台もトラックが通る度に、窓がギシギシと鳴るだけで、また地震!と思い、
強度なストレスになっている方が多かった。
どの被災地区も風化されるのを恐れている。「私達だけが辛い目に遭っている。もう誰も私達の事なんか気にしてくれない」と
疎外感で一杯になるのだ。
今夏は豪雨被害が多かった。ここの方々も同様だろう。
水曜日に「3.11」から2年半ということでTV局が少しニュース番組で特集をしていたが、別に区切りだから思い直すということではなく、
いつも心の片隅に彼らを思う気持ちを持ちたいものだ。震災に限らず、原爆投下の日、終戦の日等も。
栃木の真岡も同様。「真岡はどうなったかな?」と話しても「え?真岡?何かあった?」という感じかもしれない。
あそこも被災直後はTVで話題になったのだが、今尚、公共施設が使えないのだ。ようやく市民ホールの再建に動き出したようところ。
私が何度か書いているそこの市民交響楽団はメイン練習場を失うどころか、活動の存続すら危なくなった。
今、必死にもがきながら活動を続けている。ギリギリの気持ちで取り組んでいるのだ。
新潟中越地震はもうだいぶ時間が過ぎたが、つい数年前にようやく様々な生活基盤が復旧した。
地震直後、トンネルが滑落した。中に車が通ったかもしれないと、捜索も行われた。すると特殊カメラが土砂に埋まった車を発見した。
中に人がいたとしても生存は絶望視されたが、災害救助犬が僅かな隙間から幼児(2歳)の生存を確認し、けたたましく吠えて
レスキュー隊に知らせた。
運転していた母親などは即死だったようだが、この幼児は何かの拍子で車から投げ出され、またその投げ出された場所が空間に
なっていて、かろうじて空気が通り、生きていたのだ。
「何とか助けてあげて!」とTV画面を見入った方も多いだろう。TV局は生中継で延々と状況を伝えた。岩石は複雑に重なり合い、
余震が何度も発生し、救出作業は困難を極めた。隊員が僅かな隙間から幼児に声をかけ(まだ2歳なので、会話も難しかったと思う)、
実に発見から4日後救出。この幼児を隊員が岩石群の奥から引き出し、抱っこした時は涙が出た。
優太君は、4日間も、トンネルの中で頑張ったのだ。
私は数日後、あの現場に赴いたが、そこは破壊されたトンネルだった。
彼に対して今も各地から支援している方々がいるということも知った。
彼の場合、劇的な救出だったので、心を打たれた方も多かったのかもしれないが、それでも、もうあの大地震から9年経過している。
JAL123事故で奇跡的に助かった川上慶子さん(当時、中学生)も同様。事故直後からしばらく彼女には多くの手紙、支援が届いたそうだ。
彼女は看護師になり、阪神淡路大震災では医師と現地に向かった。
「忘れない」ということを忘れないようにしたい。そして微力ながら、何か手伝うことがあれば力を貸したい。
災害ボランティアというと、まだ身構えてしまう方も少なくないが、何のことはない。ボランティア保険に入って
(各市町村の協議会事務局で数分で申し込める。年間保険料は500円弱。市役所に何かの用事に行くことはあると思う。
ついでに寄ってみることをお勧めする。協議会は大抵、役所内もしくは分庁舎にある。どの市町村から申し込んでもOK。)、
あとは現地で長靴履いて、片付けとかするだけだ。どうってことはないのだ。
危険なところでの作業はない。あくまで素人集団なのだから。
行政を批判し、いち早い復興を促すのもいいが、そうは言っても、彼らはすぐには動かない。
ボランティア活動が可能な地であれば、我々がとりあえず、そこに赴き、動くしかないのだ。
災害直後は、ライフライン確保とまず片付け・清掃なのだ。人手がいる。
昨日段階でのべ1694人が参加したようだ。
この中には毎日参加した方もいるだろうが、実数というか1000人以上は関わったと思う。素晴らしいことだ。
私が作業に参加した時は、何も用意もせずに受付に来た不慣れな若者も多かったが、とにかく、何か手伝いたい!と受付に来たその気持ちは
素晴らしい。今風の若者もいたが、熱心に取り組んでくれた。
正直、私はのべ数でも200人程度かと思っていた。実にのべ1694人!嬉しかった。
いつも思うのだが、行政機関はすぐには動かない。そこがもどかしい。今回の越谷福祉協議会の動きは敏速だった。
初日・2日目は、少し問題点があったが、いち早く改善した。
あの竜巻被害からもう1週間少し経過した。毎度ながら、もうマスコミも取り上げないから、この被害も一段落かと思ってしまう可能性もあるが、
当然ながらそんなことはない。片付けは終わっても、再建は大変だ。
被災状況によっては、家を完全にゼロから作り直さなければならない方もいるだろう。
新築中の家もやられた。
国道4号バイパスを車で走ると、越谷市大袋近くの(旧 国道4号と立体交差するところ)住宅群の一部はブルーシートで覆われている。
屋根が完全に吹っ飛んだところは、何もしていない。柱が数本だけかろうじて立っているアパートらしきものもある。
東武電車からも一瞬、現場を確認出来る。
ボランティア作業中、「空の色が少しでも黒くなると怖い」と言っていた住民がいた。全くその通りであろう。
雷が鳴るだけで「また、来るのか!」と心配したご老人もいた
宮城では、例えば、仮設住宅近くに何台もトラックが通る度に、窓がギシギシと鳴るだけで、また地震!と思い、
強度なストレスになっている方が多かった。
どの被災地区も風化されるのを恐れている。「私達だけが辛い目に遭っている。もう誰も私達の事なんか気にしてくれない」と
疎外感で一杯になるのだ。
今夏は豪雨被害が多かった。ここの方々も同様だろう。
水曜日に「3.11」から2年半ということでTV局が少しニュース番組で特集をしていたが、別に区切りだから思い直すということではなく、
いつも心の片隅に彼らを思う気持ちを持ちたいものだ。震災に限らず、原爆投下の日、終戦の日等も。
栃木の真岡も同様。「真岡はどうなったかな?」と話しても「え?真岡?何かあった?」という感じかもしれない。
あそこも被災直後はTVで話題になったのだが、今尚、公共施設が使えないのだ。ようやく市民ホールの再建に動き出したようところ。
私が何度か書いているそこの市民交響楽団はメイン練習場を失うどころか、活動の存続すら危なくなった。
今、必死にもがきながら活動を続けている。ギリギリの気持ちで取り組んでいるのだ。
新潟中越地震はもうだいぶ時間が過ぎたが、つい数年前にようやく様々な生活基盤が復旧した。
地震直後、トンネルが滑落した。中に車が通ったかもしれないと、捜索も行われた。すると特殊カメラが土砂に埋まった車を発見した。
中に人がいたとしても生存は絶望視されたが、災害救助犬が僅かな隙間から幼児(2歳)の生存を確認し、けたたましく吠えて
レスキュー隊に知らせた。
運転していた母親などは即死だったようだが、この幼児は何かの拍子で車から投げ出され、またその投げ出された場所が空間に
なっていて、かろうじて空気が通り、生きていたのだ。
「何とか助けてあげて!」とTV画面を見入った方も多いだろう。TV局は生中継で延々と状況を伝えた。岩石は複雑に重なり合い、
余震が何度も発生し、救出作業は困難を極めた。隊員が僅かな隙間から幼児に声をかけ(まだ2歳なので、会話も難しかったと思う)、
実に発見から4日後救出。この幼児を隊員が岩石群の奥から引き出し、抱っこした時は涙が出た。
優太君は、4日間も、トンネルの中で頑張ったのだ。
私は数日後、あの現場に赴いたが、そこは破壊されたトンネルだった。
彼に対して今も各地から支援している方々がいるということも知った。
彼の場合、劇的な救出だったので、心を打たれた方も多かったのかもしれないが、それでも、もうあの大地震から9年経過している。
JAL123事故で奇跡的に助かった川上慶子さん(当時、中学生)も同様。事故直後からしばらく彼女には多くの手紙、支援が届いたそうだ。
彼女は看護師になり、阪神淡路大震災では医師と現地に向かった。
「忘れない」ということを忘れないようにしたい。そして微力ながら、何か手伝うことがあれば力を貸したい。
災害ボランティアというと、まだ身構えてしまう方も少なくないが、何のことはない。ボランティア保険に入って
(各市町村の協議会事務局で数分で申し込める。年間保険料は500円弱。市役所に何かの用事に行くことはあると思う。
ついでに寄ってみることをお勧めする。協議会は大抵、役所内もしくは分庁舎にある。どの市町村から申し込んでもOK。)、
あとは現地で長靴履いて、片付けとかするだけだ。どうってことはないのだ。
危険なところでの作業はない。あくまで素人集団なのだから。
行政を批判し、いち早い復興を促すのもいいが、そうは言っても、彼らはすぐには動かない。
ボランティア活動が可能な地であれば、我々がとりあえず、そこに赴き、動くしかないのだ。
災害直後は、ライフライン確保とまず片付け・清掃なのだ。人手がいる。
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