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7.オフ会・練習会 : 「源氏物語&抹茶ソフトマラニック」のお知らせ

投稿者 トピック
ケイタロー
運営スタッフ
  • 登録日: 2007-3-5
  • 居住地: 京都
  • 投稿: 1253
「源氏物語&抹茶ソフトマラニック」事前学習(その5)
帰りは、宇治川に沿って走ります。

■宇治橋から堤防を少し行くと、右手にこんもり茂った森が見えてきます。前回登場した「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓(宇治墓)」です。莵道稚郎子は応神天皇と宇治の豪族の娘・宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれ、幼い頃から学問に優れ一度は皇太子になったのですが、兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子です。紫式部は、この皇子を源氏物語の八宮(はちのみや)のモデルにしたのではないかといわれています。

前にも書いたように、宇治川の流れを今のように変えたのは豊臣秀吉です。そこで改修のため築いた堤防を太閤堤と呼び、僕たちが走る堤防とほぼ重なっています。2年前に、宇治橋の下流で、現在の堤防より内陸側の茶畑の下から太閤堤の跡が発掘されました。現在は埋め戻されて見られませんが、「石張護岸」や「杭止め護岸」が発見され、僕も見に行きましたが、とても緻密に造られていて当時の土木技術の高さに驚きました。

その堤防を下流へ、伏見の町に向かって走ります。途中やや交通量が多いので気をつけてください。
隠元橋を越えて、帰りは桃山南口の駅前から桃山御陵(伏見城)を通って帰ります。
少し登りますが、最後に刺激を入れて・・・

■さて、現在の桃山御陵は、かつて秀吉が築いた伏見城の跡に造られました。(その1)でお話したように、最初の伏見城は慶長元年(1596年)の地震で壊れてしまったので、秀吉はすぐ近くの木幡山にあらたに城を築きました。地震で火災が起きなかったので、多くの材木が再利用でき、その年の内に本丸は再建されました。その後、五層の天守が建つ本丸を中心に、二の丸・西の丸・松の丸など12の曲輪が配され、北から東側に巨大な堀、南の宇治川には船入りを設け、西には外堀をめぐらすという壮大な城が完成しました。秀吉は大坂城と伏見城を行き来していましたが、晩年は伏見城で過ごすことが多く、慶長3年(1598年)この城で没しました。

秀吉が没すると、直ちに徳川家康が伏見城に入り、徳川政権への足固めをします。ところが、慶長5年(1600年)の会津上杉氏遠征中に、石田三成らが挙兵、大軍で攻撃したため伏見城は炎上して落城。この時伏見城を守っていたのは、かつて家康が駿府で人質時代を過ごしていた頃のお守役・鳥居元忠。城兵はわずか1800余り。鳥居討死、伏見城落城の知らせに、家康は人目を避けるようにして涙をこらえたといいます。関ケ原の合戦の前哨戦ですね。

戦火を受けた伏見城は家康の手によって、翌年には復興され、征夷大将軍となった家康は伏見城で政務を執ることが多かったため「伏見幕府」とも呼ばれました。三代将軍家光が将軍宣下を受けたのも伏見城でした。
その後、大坂の陣で豊臣氏が滅び、家光の時代となると江戸幕府の基礎も固まったため、伏見城は廃城になりました。五層の天守は二条城に移築され、城内の建物や石垣は寺社など各所に転用されました。二条城の天守や大坂城の伏見櫓は焼失してしまいましたが、福山城の伏見櫓が現存しています。大手門は、すぐ近くの御香宮神社の表門として移築されているので、帰りに寄ります。

ところで、今でも伏見城跡に天守があるんですが、これは昭和39年(1964年、ということは東京オリンピックの年)に、近鉄が建てた模擬天守(鉄筋コンクリート)で、キャッスルランドという遊園地としてオープンしました。ジェットコースターやプールもあって、僕も子供を連れてよく行きました。
しかし、入場者数の減少で経営が困難となり、平成15年(2003年)閉鎖され、跡地は京都市により運動公園として整備されています。本当は模擬天守も解体予定だったんですが、地元の要望で残されました。ただ、耐震強度を満たしていない可能性があり危険なため、城内に入ることはできません。よく映画の撮影に使われています。
 
■さて、かつての伏見城本丸跡には、現在、明治天皇の御陵・伏見桃山陵が築かれています。すぐ東には昭憲皇太后の伏見桃山東陵が隣接しています。ここを墓所としたのは天皇自身の遺言だったといわれ、上円下方墳の墳形は天智天皇陵をモデルにしました。幕末の孝明天皇についで火葬にはしませんでした。大正天皇以降の天皇・皇后の陵は東京の八王子に作られたため、近畿地方以西に作られた最後の天皇陵です。

230段の大階段を登って、御陵からの絶景を楽しみます。
これで登りは終わりです。
あとは伏見城下へ大手筋を下ります。

先に述べた伏見城大手門を移築した御香宮神社の表門を見て、これも(その1)に書いた、工兵第16大隊が駐屯していた今の桃陵団地(伏見奉行所跡)に寄って、一路中書島へ戻ります。

さぁ〰て、お風呂に入って、宴会だぁ〜。(終)


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ケイタロー(京都・桃山)


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